『落下音』を観てきた

スケジュールに『落下音公開』と書いてあったので、この週末で観てきた。

「書いてあったので観てきた」と表現しているのは、実際、スケジュールには書いてあるがそれがどんな映画なのかまったく知らないまま映画館に足を運んでいるからだ。正確には、これをスケジュールした時点では、映画公開に関する記事を読んで興味を持ったから、備忘録としてカレンダーに登録しているわけだが、月日が経って綺麗さっぱりに忘れるため、タイトル以外の情報が抜け落ちてしまうのだ。

が、ではなぜ観る前に映画情報を調べたりしないのかというと、なるべく事前知識なく作品を楽しみたいからだ。レビューはもちろんだが、序盤のあらすじ、物語の設定など、なるべく知らない状態で観始めたいのだ。

映画感想をブログに書くのは初めてだし、そもそも映画を観るたびに感想を書く気もないのだが、この映画に限って言えば、なにか書き残しておきたい!という衝動に駆られたからだ。いや、その衝動で投稿した X のポストが、複雑な感情ゆえ推敲し足し引きしているうちに、こんな意味のわからない文章になったので、補足の意味も含め今の想いを出し尽くしたい、と思ったのだ。

映画落下音、1ミリも内容知らずに観てきたけど、、中々事件的な作品だった笑 人に勧めづらい一方で、映画館以外で見る価値があるのか?とも思った笑

物語に対する解釈、解説はどこかの映画 YouTuber がしてくれると思うし、実際そこまでの解説能力はないので省くが、今かなり抽象的にしか咀嚼できていない、でも書き記しておきたいこの感覚を、誰かの声で上書きされる前に記録しておく。

事前知識なく劇場に来ている筆者は、作品の評価はおろか、この作品が何分間あるのかも当然知らない。なのでスクリーンを前に、まるで目隠しで車に乗せられているかのように、今1時間経ったのか?2時間なのか?3時間なのか?常に不安に駆られ続けていた。一体いつ終わるのか?と。つまり、相当退屈だったのだ。

だが、そんな修行のような時を終え、シアターが明転した時に、やっとこの映画体験の凄さを実感したのだった。過去/未来、生死(この世/あの世)、現実/妄想、誰もが心に秘めている記憶。人間の根底にあるさまざまな境界線を破壊され、ただ押し流されるしかなかったと気がつく。まるでそれは、五次元からこの世を眺めるとはこういう感覚なのだろうか?と。

ちなみに、途中途中の展開で、既知の映画に当てはめて(なんか『クラウド・アトラス』っぽいな!など)期待する場面もいくつかあったが、基本的にすべてが裏切られた。

だが、こうした作品こそ映画館で観るべきだ。この体験は映画館でなければ味わえない。それが上述の「映画館以外で見る価値があるのか?」の真意だ。

良質なコンテンツに溢れ、加えて「タイパ・コスパ」が蔓延るこの世の中で、誰がこんな「退屈」な映像を完走できるだろうか? 映画館という監禁状態でなければ、相当な物好きでないと直視し続けられないはずだ。そしてこのカオスを不特定多数の観客と共有する数奇さこそ、また映画の魅力だと思う。緊張と緩和、期待と退屈の繰り返しは、周囲の様々な物音に感じられる。誰も声には出さないが、この混沌が自分だけのものでないと実感できることで、また目の前の映像に向き直れるのだ。

結局、最後まで観た感想が、ただ「意味がわからなかった」では、その人にとっては映画の価値すらないのだが、筆者にとってはあるシーンに衝撃を受けたことで、この映画に対する唯一無二な価値を見出したのだった。同時に、この映像を今この場所で、見知らぬ人々と囲んで、同じ体験をしていることに奇跡を感じたのだった。


まあ色々書いたけど、この作品は映画館でなければ誰が観るのだろう?と思うし、仮に評価された後の再上映で物好きが集ってみるのも、それはまた違うと思う。だから仮に観るなら、作品への評価がまだフレッシュなうちに、劇場に足を運んで己の心で観ておくと良いと思う。タイパ・コスパを気にする人には100%向いていないと断言する。

他に観たい作品といえば、何年も前に同僚に勧められて読んだ『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だが、池袋のIMAXレーザーGTのスクリーンだとなかなか席が取れずに苦戦している。苦戦しているうちにもう一度原作読み直せばよかったと思っている。

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